空崎ヒナと無糖のコーヒー 前編
ゲヘナ学園情報部に所属する一年生、空崎ヒナは目の前の状況を理解できずにいた。
「……なに、あれ?」
その光景があまりにも非現実的だったからだ。
アビドス砂漠に残された廃墟の陰に隠れたヒナは、双眼鏡で見える景色を疑った。
先輩の甘言に騙され、はした金で雇われアビドスを襲撃するヘルメット団。
どこからか情報が洩れてさらに尾ひれがついたのか、錦の御旗を掲げて正義は我にありと言わんばかりに正当化された襲撃は、いまやたった一人によって壊滅にまで追い込まれていた。
「うわぁあああ! なんだコイツ!? 何なんだ!?」
「こっち来んな! 誰か、誰かアイツ止めろ!」
盾も持たずショットガンと体に巻き付けた弾倉だけという身軽な恰好。
それでいて砂漠の砂に足を取られることもなく、縦横無尽に駆け回る。
初撃でヘルメット団のリーダーを撃ち抜いたあとは、敢えて敵の集団に飛び込んで混乱と同士討ちを狙いながら止まることなく走り続ける。
悲鳴と銃声、爆発音が響くなか、猛禽のように飛び回り、意識を刈り取っていく。
――小鳥遊ホシノを調査せよ――
最初はなんてことのない任務だと思った。
中学時代に名を馳せた少女が、どこからのスカウトも蹴ってアビドスなんて廃校寸前の学校に入学した。
何か企みがあるのではないか、とそのことを怪しんだ万魔殿が情報部に依頼して、こうして調査することになったのだ。
「強い、なんてものじゃない。化け物レベルだ」
死屍累々と化した砂漠で、呆然と見つめることしかできなかった。
〈――っ!? 今、目が合っ――〉
双眼鏡越しにホシノの鋭い目と視線が交錯する。
瞬間、ホシノは手榴弾を取り出し、流れるように安全ピンを抜いて地面に叩き付ける。
衝撃で破裂した手榴弾が、濛々と砂煙を上げて立ち上り、ホシノの姿を隠した。
「な、どこに行「見つけましたよ」――っ!?」
間髪入れず放たれた銃弾が、反応する間もなくヒナの体に叩きこまれる。
「ぐ、うう……」
「さっきから視線が鬱陶しいと思っていましたが、こんな所に隠れていたんですね」
どうしてここに、と思わず洩れそうになる。
いわずもがな、ここアビドスは彼女の庭だ。
廃墟の地図も、ヒナの真後ろにショートカットで回り込める裏路地も把握しているのだろう。
「一発で気絶しないなんて、頑丈ですね」
苦し紛れにハンドガンで撃ち込むが、容易く避けられる。
呻くヒナを見下ろし、再度銃の照準を合わせるホシノ。
いつでも次弾を撃てる構えだ。
「ゲヘナの情報部が何の用ですか? ああ、他のお仲間は先程流れ弾を受けてしまったようですね。3人くらいですか」
嘘だ、こいつ絶対狙ってやった。だって人数まで把握してるもん。
首狩り戦術で生んだあの混戦の中で、自分を観察する視線を一人ずつ狙って処理していたのか。
ヒナは戦慄した。
「ストーカーですか? ならヴァルキューレに放り込みますが」
「……げ、ゲヘナは小鳥遊ホシノを警戒している。アビドスなんかに行って何を企んでいるのかって」
「……アビドス『なんか』?」
「ヒッ」
「ああ、言っておきますが、別に何も企んでなどいませんよ。お偉い方々が求めているような陰謀めいた策略があると思ったら大間違い。面倒な腹の探り合いだとか、三大校のパワーゲームとやらに巻き込まれたくなかっただけです。こちらが望んでないのに神輿にして担ぎ上げようとしたり、威を借るようなものにはうんざりしていましたからね」
肩をすくめて苦々しげにこぼすホシノ。
確かにもらった資料には、親しい友人関係は記載されていなかったな、とヒナは納得する。
「知りたいことは知れたんだから、もういいでしょう。とっとと帰ってください」
「う、うん、わかった……」
こんなに素直に答えてくれるなら、素直にインタビューでもすれば良かったのに。
明らかな上層部の失策。警戒しすぎた結果、虎の尾を踏んで怒らせた例だった。
銃を下したことで空気が弛緩し、ヒナが帰ろうとした瞬間、ホシノの懐が震える。
「……もしもし」
『あーっ! やっと出た!』
取り出したスマートフォンから、少女の明るい声が聞こえる。
傍にいたヒナにも、相手が誰なのかは分かった。
現アビドス生徒会の会長であるユメだ。
「ユメ先輩、何の用ですか?」
『何って、今日はピクニック行こう、って話したじゃない。なのに全然電話出ないから心配したんだよ。また寝坊したの?』
「……ええ、そんなところです」
『もう、夜更かしばかりしてたらおっきくなれないよ。それじゃ、待ってるからね!』
「……余計なお世話です」
一言告げて通信が切れ、画面を見つめるホシノに、ヒナは眉をしかめる。
「……ピクニック?」
そうかそうか、ピクニックか。
ずいぶんとまあ楽しそうなことだ。
そんな大事の前の小事とばかりに、目の前を飛ぶ邪魔な虫を叩き潰すように、容易く自分たちは薙ぎ払われたのか。
「――なめるな」
指先に力が入り、未だ手放さなかった銃を構えて撃った。
こちらから視線を外していたホシノは、避けることもできず直撃を受ける。
ガァン! とまるで金属にでも当たったような音を立てて弾は弾かれた。
のけぞりもせず、ヒナの手元のハンドガンを見て、ホシノはぽつりと零す。
「……弱い」
「あぐぅっ」
すかさず放たれた銃弾が、ヒナの顎を掠めた。
途端、視界がゆがみ焦点が合わなくなる。
〈まずっ、足が……〉
衝撃で起きた脳震盪により足の力が抜けてへたり込む。
手から滑り落ちたハンドガンを一瞥し、ホシノは再度ヒナへとショットガンを突きつけた。
「先ほどから思っていましたが、銃が体に合っていませんね。身のこなしは悪くないのに、銃に神秘が込められていない。だからこんな豆鉄砲になる。マシンガンなどの連射できる方がよほどマシですね」
「え、神秘? 何を言って……」
「目覚めたらお仲間は回収しておいてください。邪魔なので」
その言葉を最後に、今度こそ脳天めがけて放たれた弾丸がヒナの意識を刈り取った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
後日、ヒナはたった一人で、再びアビドスの砂漠を訪れていた。
這う這うの体で帰還したヒナの報告を受け、小鳥遊ホシノの調査計画は大幅に縮小することとなった。
企みなどない、というホシノの証言を全て信用したわけではない。
しかしそのまま続けるにはコストに対するリターンが見合わないと判断された。
人員も縮小し、今ではまともに接触できたヒナだけが残っている。
減った人員の分、望遠レンズも新調した。
これで以前の双眼鏡よりも遠くから監視できるだろう。
「ふぅふぅ、あつっ」
新たに下った命令は遠くからの監視のみ。
特に荒事をする予定もなく、廃墟の一角にテントを立て、今はこうしてコーヒーを飲みながら時間を潰すだけだった。
ブラックコーヒーの苦みとカフェインが意識を覚醒させ、熱がじんわりと体を温める。
情報部としての給料も出るが、ヒナも学生である以上、勉学もおろそかにはできない。
ずっと張り付いての監視というわけでもなく、一度調査で人員を動員した以上、ある程度仕事はしていますよ、という情報部の建前でしかなかった。
半ばアンタッチャブルの扱いを受けている小鳥遊ホシノだが、しばらく経過観察を続けて何事もなく過ぎれば、ヒナも撤退することになるだろう。
砂しかないアビドスなんぞに行ったところで何ができるのか?
それについてはヒナも同意である。
今のアビドスにあるのは砂漠と砂に埋もれた廃墟ばかりだ。
ここにご執心なのは廃校にならないように足掻いている学校と、地元からすら追い出されたチンピラと、何かを探しているカイザーコーポレーションくらいである。
そのチンピラも、先日の壊滅的被害を受けた噂が広がっているのか、命知らずの散発的な襲撃だけに減っている。
そしてそこに対抗するのはホシノだけではなく、生徒会長のユメも混ざっていた。
ホシノだけに任せて後ろに引っ込んでるだけかと思いきや、盾を構えて自らも前線で戦えることを今まさに証明している。
敵を上手く挑発し、盾を巧みに使い被弾を抑える。
基本的ではあるがそれ故に練度は高く、無傷で敵をいなしていた。
それに加えて敵からの意識を外れたホシノが縦横無尽に動けたのなら、立ち向かえる存在はもういなかった。
「……すごい」
2人の連携は息が合っており、まるで踊っているかのようだった。
中学時代、ホシノの周囲には彼女におべっかを使うか利用しようとする者ばかりと言っていた。
おそらく対等な存在、ホシノについてこれる者はいなかったのだろう。
交友関係の狭い世界の、傲慢な王様。
先日のヒナとの会話でも自分の主張ばかりで、相手を気遣わない姿勢にその片鱗は見て取れる。
そんな彼女が、自分と対等に接してくれて、息を合わせられるようなユメと出会えたのなら、なるほど理解できる。
「言ってたこと、本当だったのかも」
やったね、とホシノに抱き着くユメを遠目に見ながら、ひとりごちる。
迷惑そうにしているが無理にでも振りほどかない時点で嫌ではないのだろう。
彼女がいるから、ホシノはアビドスを選んだのだ。
「たのしそうね……」
こうして一人、遠目で覗き見をするだけの自分は、やはりただのお邪魔虫だったか。
飲み干したコーヒーはすっかり冷めきっていた。
―――――――――――――――――――――—―――――――――――――――
それからもヒナの監視活動は続いた。
時折望遠レンズ越しにホシノと目が合うこともあり反射で体が硬直することもあったが、両手を上げて交戦の意志はないことを示すと、以前のように強襲されることもなかった。
最初が戦闘だったが故か暇に思えてしまうが、砂漠で劇的なイベントなどそうそう起きるものではない。
今もこうして、ホシノとユメが並んで自撮りをしているくらいだ。
楽しそうに笑うユメとは対照的に、仏頂面で立っているだけのホシノ
そんな彼女を抱き込むようにして、ユメはカメラにピースしていた。
『ほらほら、ホシノちゃん笑って~』
『何でですか、嫌です』
おそらくこんな会話を繰り広げているのだろう。
ユメは喜怒哀楽がはっきりしており、ホシノは端的なはっきりとした口調だ。
意外と長い期間彼女たちの観察を続けたヒナは、読唇術でおおよその会話は見て取れるようになっていた。
とりとめのない会話をして、ユメがボケて、渋々ホシノがツッコむ。いつものことだ。
「……えっ?」
だがヒナは見た。
2人で撮った写真の出来栄えを確認するためカメラを操作しているユメが目を離した瞬間、ほころぶように小さな笑みを浮かべるホシノの姿を、ヒナは見逃さなかった。
「……」
自身が化け物とまで評した相手が、ただの少女のように笑う。
そのことにヒナの心がささくれ立つ。
「何やってるんだろう、私……」
視線の先にはユメがいて、それを自分は遠目で眺めているだけ。
「こんなの、本当にただのストーカーじゃない……ばかみたい」
自分はここで1人なのに、彼女たちは2人で楽しく日々を過ごしている。
自分は有象無象と切って捨てられたのに、ユメはそうでないことに言葉にできない感情が波のように荒れ狂う。
「もう十分でしょ」
小鳥遊ホシノは脅威になりえない。
平和ボケした姿を報告すればもう反対意見など出ないだろう。
予算の無駄と撤退命令が下るはずだ。
最後に飲み干したコーヒーはすっかり冷めきっていて、酷く苦かった。
―――――――――――――――――――――――――――――
撤退を決めたヒナだったが、すぐに荷物をまとめてはい終わり、とはならなかった。
大規模な砂嵐が発生したのだ。
そのせいで頼りないテントで過ごすことはできず、一時ゲヘナまで避難することになった。
ぎりぎりテントは飛ばされなかったものの、中まで砂が入り込んでおり、回収できなかった機材が砂まみれとなっていた。
「うわ、これ大丈夫かな?」
意外と愛着の湧いていた望遠レンズを救出するといつものように構えてアビドスへ照準を合わせる。
そこでヒナは、いつものようにホシノを見つけ、いつもとは違うホシノを見た。
「えっ」
焦りを隠そうともせずに走り回る姿に、何か起きたのだろうかとピントを合わせる。
『どこ……ユメせ……どうし……返事して……』
「……まさかあの砂嵐の中出ていったというの!?」
読唇術で読み取った内容と今の状況から、何が起きたのかをヒナは即座に理解した。
自然現象に人間が敵うはずもない。
アビドスにいるなら分かりきっているだろうに、端的に言って自殺行為だった。
「探さないと。このままじゃ本当にただのストーカーで終わってしまう」
まともに言葉も交わしたことない間柄ではあるが、長く観察を続けるうちにヒナは奇妙な親近感を抱いていた。
たとえそれが錯覚だとしても、ここで探さないわけにはいかない。
取るものもとりあえず、ヒナもまた、がむしゃらに走り出した。
「うそ……」
だが気持ちを入れ替えたところで、世界は待ったなどしてくれない。
ヒナの決意は、あまりにも遅すぎた。
『ユメ先輩……ここにいたんですね……』
ヒナがどれだけ早く決断したとしても、それはホシノよりも遅く。
血にまみれた盾を見つけるのもまた、ホシノが先だということだ。
ヒナはその姿を、ただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。
……。
…………。
………………。
その後の記憶は、ヒナにとっても曖昧なものだった。
ただ明確に分かっている事は、ユメという少女が死亡したという事だけだ。
なぜ砂嵐の中ユメは出ていったのか?
なぜユメは死ぬことになったのか?
ヒナには何も分からなかった。
ユメを埋葬したのち、抜け殻のようになって数日呆然としていたホシノは、今までの高機動を捨て、盾を使った戦闘スタイルを猛然と練習するようになった。
汗と涙を振り乱し、全力で動いて倒れ、意識が戻れば血反吐を吐きながら再び立ち上がり盾を振るう。
止まれば死ぬ魚のように、昼夜問わず動き続けた。
いっそそのまま砂漠に沈んでしまっても、この時のホシノにとっては本望だっただろう。
それを止める者は砂漠には誰もいなかった。
十六夜ノノミという少女がアビドスを訪れるまでは。
そしてヒナは……。
「お世話になりました」
叩き付けるように報告書と共に退部届を提出し、情報部を辞めた。
――生徒会長ユメを失ったアビドスには、もはや見るべきものは何もない。生徒会長という後ろ盾を失った小鳥遊ホシノもまた警戒するに値しない。これ以上の調査は不要と提言する――
アビドスに近づきたくなかったのか、それともこれ以上アビドスを騒がせたくなかったのか、ヒナにはもはや何も分からなかった。
ただこれ以降、情報部の調査報告書に、アビドスの名が出ることは無くなった。
ヒナには何も分からなかった。
なぜ砂嵐の中ユメは出ていったのか?
なぜユメは死ぬことになったのか?
その答えを、ヒナは持ち合わせていない。
だってヒナは、見ているだけしかできなかった、ただの無能なのだから。
「まず……」
そんな弱い自分と決別しよう。
心機一転、気持ちを切り替えるために飲んだコーヒーも、おいしくは感じられなかった。